懐古の処理
学生時代の友達のライブを見に行った。
彼女は私が紹介した先生の音楽教室に通っている。
(私と違ってプロ志望)
今日は日頃のレッスンの成果を披露するための発表会だった。
純粋にびっくり。
学生の頃よりずっと上手になってたから。
あの子はあんな風に楽しく歌える子だったかなと、飛んでった目玉はしばらく帰ってこなかった。
お疲れの挨拶する時に、必然的にお世話になった先生にも会う。
久しぶりだね。
ちょっと大人っぽくなったね。
で、今何してるの?
音楽は続けてるの?
先生の言葉に、勝手に裏切ったような気持ちになった。
先生、私は今、まったく違うことをしています。
(きっと先生からすれば、どうでも良いことなんだけど)
高校生の頃の話。
先生には「プロになります!」と調子の良いことを語りながら、その実私はただただ愉快な音楽に夢中になっていただけだった。
(それこそ「世間体」でプロになると言っていた気がする)
結構小さい頃から現実主義というか。
夢(と言っていいのかも、もはや曖昧)は抱くけど夢は夢、というリアリストだった。
ちなみに幼稚園の頃の夢は声優さんだった。ピカチュウになりたかったから。
加えて興味本位でやってみたいことも極端に多く、過去には習字、お絵描き、合気道とやりたい習い事をやりたいだけやってみたりもした。
良く言えば「好奇心旺盛」、悪く言えば「浮気性」。
勉強は死ぬほど苦手で、たぶん努力に見合った成果は現れなかったように思う。
でも音楽はやればやるほど顕著に成果は現れた。
習字や合気道よりもずっと夢中になった。
そもそも「ドレミ」がどこの位置にあるのかすらも分からない状態から、ピアノ伴奏まで出来るようになったんだから。
極め付けには「個性があるね」という魔法のお世辞。
「何とも言えない微妙な感じ」をすべて「個性」で纏めてしまえるんだから、何でも個性にしようだなんて今思えばおこがましいにも程がある。
話が逸れたけど。
とにかく、良くも悪くも時間はお薬。
良い思い出も、悪い思い出も時間がどっかへ連れてってくれる。
高校生の頃の楽しい音楽の時間は、新しい興味に惹かれていくうちに自分の中でなかったものとなっていた。それもごく自然に。
それが悲しくもあり、嬉しくもある。
きっと自分は、もっともっと新しいものを見れるだろう。
置いてきた時間はさておき。
今日はその置いてきた時間を目の当たりにして、こっそり胸が痛かった。
懐古の処理。