過保護の処理

放置されたい。

どういうわけか、どんな環境においても「保護者ポジション」が気付けば近くにいて

あれやった?これは大丈夫?本当にできる?

お前はおかんかよ、とうんざりするほど構い倒されることが多い。

程良い「おかん」は好きだ。

けど、時には「ねっとりおかん」もいる…。


人間、放っておかれた方がより力を発揮できると思う。

“火事場の馬鹿力”という言葉は本当によく出来ている。

学生の頃のアルバイトも、就職してからの仕事も、もちろん右も左もわからない場合は例外として、結局1人ぼっちにされた方が生き生きと動けた。

(多分私だけじゃないと思うんだよね。)

考えてごらん。

隣で監視してる人がいると分かっていて、ベストパフォーマンスが出来ますか?

プロならすべき?しなければならない?

そんな優等生な意見はどうでもいいんだよ。

精神的な問題だから。

人は機械じゃないから、型にはまった行動を取ろうとしても限界がある。

そこで生まれてくるのが個性だ。


何でこんなことを書いたのかっていうと、ちょっとあまりにも過保護な人が身近にいる。

PC操作に疎い私は初期設定なんかをやってもらったんだけど。

それ以来ちょっとした動作にも「こうすると良い」「この方がもっと良い」と茶々を入れてくる。

なんなら関係ないプライベートにまで口を出してくる。

もちろん悪意は感じられないし、その人なりの善意なんだろう。

けど私には私のやり方があり、あまりにも干渉されると犬猫よろしくストレスで死ぬ。


『そういう感じで呼吸しないでください。もっとふぅーふぅーって感じで。ほらやってみて』


と強要されている気分だ。

どうでも良いだろ!息の仕方なんて。


半分以上ただの愚痴のような感じになったけど、まぁ実際“火事場の馬鹿力説”は有力だ。

前職でアルバイト指導を行うなか、どうしてもやらなければいけない場面になってようやく責任感や本来の実力を発揮させるバイトさんは少なくなかった。

誰かが見てくれているという安心感で殻を破れない。

もしくは、誰かが見ているという圧迫感から殻に閉じこもる。

多かれ少なかれ人はこういう生き物だと私は思う。


とにかくマウスジェスチャーの設定にまで口を挟まないでほしい。

助けてくれ。

一人ぼっちの時間をくれ。

そんな過保護で、優しく憂鬱な新しい職場。

懐古の処理

学生時代の友達のライブを見に行った。

彼女は私が紹介した先生の音楽教室に通っている。
(私と違ってプロ志望)
今日は日頃のレッスンの成果を披露するための発表会だった。

純粋にびっくり。
学生の頃よりずっと上手になってたから。
あの子はあんな風に楽しく歌える子だったかなと、飛んでった目玉はしばらく帰ってこなかった。


お疲れの挨拶する時に、必然的にお世話になった先生にも会う。

久しぶりだね。
ちょっと大人っぽくなったね。
で、今何してるの?
音楽は続けてるの?

先生の言葉に、勝手に裏切ったような気持ちになった。
先生、私は今、まったく違うことをしています。
(きっと先生からすれば、どうでも良いことなんだけど)

高校生の頃の話。
先生には「プロになります!」と調子の良いことを語りながら、その実私はただただ愉快な音楽に夢中になっていただけだった。
(それこそ「世間体」でプロになると言っていた気がする)

結構小さい頃から現実主義というか。
夢(と言っていいのかも、もはや曖昧)は抱くけど夢は夢、というリアリストだった。
ちなみに幼稚園の頃の夢は声優さんだった。ピカチュウになりたかったから。

加えて興味本位でやってみたいことも極端に多く、過去には習字、お絵描き、合気道とやりたい習い事をやりたいだけやってみたりもした。

良く言えば「好奇心旺盛」、悪く言えば「浮気性」。

勉強は死ぬほど苦手で、たぶん努力に見合った成果は現れなかったように思う。

でも音楽はやればやるほど顕著に成果は現れた。
習字や合気道よりもずっと夢中になった。
そもそも「ドレミ」がどこの位置にあるのかすらも分からない状態から、ピアノ伴奏まで出来るようになったんだから。

極め付けには「個性があるね」という魔法のお世辞。
「何とも言えない微妙な感じ」をすべて「個性」で纏めてしまえるんだから、何でも個性にしようだなんて今思えばおこがましいにも程がある。

話が逸れたけど。

とにかく、良くも悪くも時間はお薬。
良い思い出も、悪い思い出も時間がどっかへ連れてってくれる。

高校生の頃の楽しい音楽の時間は、新しい興味に惹かれていくうちに自分の中でなかったものとなっていた。それもごく自然に。
それが悲しくもあり、嬉しくもある。
きっと自分は、もっともっと新しいものを見れるだろう。
置いてきた時間はさておき。

今日はその置いてきた時間を目の当たりにして、こっそり胸が痛かった。


懐古の処理。

不安と期待の処理

今月の15日に1年ちょっと勤めていた会社を退職し、早くも1週間以上が過ぎていた。


「半月間、好き放題過ごしたい」


実家暮らしなのを良いことに、私は今贅沢にもニート生活を謳歌している。


朝はゆっくり目を覚まし

好きな時間に好きな事をして

眠くなったら昼寝をし

時間が合わず会えなかった友達と片っ端から食事に行き

行きたかった場所にも行き

欲しいものも惜しみなく買う

平日の昼間に映画館で映画を見る

そして夜更かしをして

大好きな本や漫画を読み漁る


天国のような日々。

大人になったからには、もうこんな風に長期的に自由な時間を作ることはできないだろう。

つまりこれが、私にとって「最後の夏休み」。

(aikoを聴きながら)



そう考えると、すごくすごく焦る。

「最後」って言葉は無条件に人を急かすもんだ。


最初は遠くに1人旅行にでも行こうかな、なんて考えてた。


知らない土地に行くことによって得られるものは大きい。

価値観が変わったり、視野が広がったり。

よくそう聞くし、実際にそうなんだと思う。


でも何だかんだで、結局私はインドア人間なんだよな。


自然や未知の環境に触れ合う時間よりも、クーラーの効いた部屋でまったり本を読んでいるぐらいがちょうど良いし、いざ旅行を計画しようとしても「待て。私、本当に行きたいのか?」と自分で自分にストップをかけてしまう。全然計画が立てられない。

世間体で「自然とふれあいに行く」を実行しようとしていただけ、だった。

(飲み会で大して食べたくもないのに、最初だからとサラダを頼む時の心境と似ている)



素直に好きなことをすべきか?

自分の心に鞭を打ってでも、新しい事に挑戦すべきか?


今、ここで悩んでる。

もうあと1週間ぐらいしかない。



そういえば会社を辞める決断をする時も、同じような気持ちになったなと思い出す。


1年ちょっと勤めていた会社はとても居心地が良かった。

上司、先輩、同期、後輩。

みんな尊敬できる人たちばっかりで、それなりに愛情も感じていた。

(最終日は不覚にも泣きながら見送られ、送別会では朝まで飲んだ)


自分のやりたいことや未来を考えれば、今こそ一歩踏み出すべき。

ただ、あまりにぬるま湯で心地良い。


悩んで悩んで、悩みまくった結果、私は新しい一歩を踏み出す選択をした。



「あーあ、あの時調子こいて辞めなきゃ良かった!」


いつかそんな日が来るのかもしれない。

100%はないし、人生に後悔はつきものだ。



でも自分で決めたからには頑張らないとなー。

なんて、不安と期待で実は落ち着かないニート生活だったりする。


私が旅行の計画を一向に立てられないのは、もしかするとそんな「新しい環境に対する不安」の現れなのかもしれない。


楽しい旅行になればいいな。

クーラーの効いた部屋、ろくに計画を立てれもしない癖に旅行の冊子を眺めながら、今日も未来に想いを馳せるのだ。



不安と期待の処理。

処理をする

1年程前から思ったことを処理するために、ここに色んなことを書いていた。


久しぶりにふと思い出して読み返してみたら、目も当てられないほどの稚拙な思考だった。


今も今で決して成熟した思考回路なわけではない。


けど、改めて書く仕事も辞めたことだし、思いついたことを一人黙々と書き綴る場所があってもいいんじゃないかなと思って、三日坊主は覚悟の上での再開。です。